1 青天の霹靂
上の子(咲太郎)が5歳の七五三の用意し、下の子(かりん)があと二週間程度で一歳を迎える、10月上旬。咲太郎は、かりんに興味を持って、関わるといらない事をして母に怒られる。かりんは、ニコニコと笑っている。私はビールを飲みながらそのやりとりを眺めている。家族四人で何気なく、ごく普通の生活を送っていた。しかし、のどかな生活は一変した。その事で夫婦での気持ちが強くなり、生きる考え方を再度見つめ直すこととなった。
咲太郎が5歳(幼稚園年長)の七五三参りを迎えるにあたり、記念写真をとるために、写真屋へ行くことにした。咲太郎は、いろんな着物を目の当たりにし、迷いながら選んでいる。かりんは、母に抱かれ寝ている。着物が選べたところで写真撮影。咲太郎は、着物を着て、見慣れない自分に恥じらいながら刀、番傘を持ってポーズを決める。なかなか決まっている。つづいて、咲太郎とかりんの二人写真だ。かりんは、一ヶ月前くらいからつかまり立ちができるようになったが、まだまだ立つことが難しい状態だ。椅子を用意してもらい、椅子を支えになんとか立てたところでシャッターが切られた。この写真が奇跡の一枚となるとは?そのときは知る由もなかった。
最近のかりんの様子が気になっていた私は、帰宅して妻と話をした。少し前までは、つかまり立ちをして活動的であったが、最近は立とうとしない。「明日にでも様子を見てもらおう。」となり、翌日、近くの小児科医院で相談に行き、経過を医師に聞いて貰った。「成長の過程でそういう事もあると思うので、もう少し様子を見ましょう。」となり、少し安心をした。しかし、二、三日後。今度は排便が出ない。出てもウサギの糞の様なコロコロが二、三粒。
翌日、再度小児科医院へ向かい、浣腸液を貰った。かりんは、そのときつかまり立ちとごろか?座る事もせず横になってゴロゴロしている。その状態を保健所へ電話し、先日の小児科医院の経過を伝えた。返答はやはり、「成長の過程でなることかも…」。その晩、「小児科医院へもう一度行き、紹介状を書いて貰おう」と妻と相談した。翌日、今までの経過を小児科医院へ伝え、市立病院宛に紹介状を書いて頂き、予約を取り、市立病院へ行き検査入院の手続きをした。
かりんの動作はみるみる低下していた。座るように身体を起こすと腰が座らない。両手で床をついてなんとか座れた。両足は、人形のようにブランブランであり、寝転がった状態で両足を持ち上げ、手を離すと床に抵抗なく打ち付ける。全く力が入っていない。当日、咲太郎は義理の母に預かって貰い、私は仕事へ向かった。妻とかりんは、入院の用意をして市立病院へ受診する。レントゲンを撮り、今までの経過を先生に詳しく妻が伝える。その日の夕方、市立病院の先生より、私の携帯電話に連絡が入った。「説明したいとこがあるので来て欲しい。」との事であった。嫌な予感が頭を過ぎったが、考えないようにし、急ぎ早やに職場から病院へ向かった。先生より説明を受ける。
状態の説明がされたと同時に衝撃が走った。
「お子様は、神経芽腫という小児がんです」
全く考えなかった言葉に頭が真っ白になった。
説明が続く。
「大人の拳くらいの大きさが心臓、肺の背中側にある。おそらく、ダンベル型であり、脊椎の八椎に跨っており、大きな腫瘍が脊椎に入り込み、神経を圧迫しており、腹部から下が麻痺している状態である。」との事であった。今までの経過がこの説明で理解できた。信じられなかった。納得したくなかった。理解したくなかった。
私は、福祉系を卒業して福祉業務に15年程度携わっていた。福祉の業界に入った動機は、高校三年生の6月頃、たまたま見た競馬騎手 福永洋一さんが落馬し、重い障害を負いながらもリハビリに勤しみ、生活復帰に向かうドキュメンタリー番組を見たのだ。人の役に立ちたいという思いが芽生え、福祉の道を志した。娘の状態は、医療面でも福祉面でも少しはイメージできた。
「抗がん剤治療などは、当病院ではできないので、専門の府立病院へ転院となる」と説明を受け、かりんのいる病室へ行く。かりんは、何もわからずベットでゴロゴロし、笑っている。あどけない笑顔を見ると涙が溢れ、止まらない。ギュッと抱きしめる。変わらずの満面の笑みが私に追い討ちをかける。かりんから離れたくなかったが、夜も遅く病院を後にした。
帰ってから咲太郎には、かりんのことは言えなかった。
涙を止めている状態がやっとだった。
翌日、転院することになった
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