3 ステージ2

入院してから二週間後、診断が下った。腫瘍のステージは2。続いて、抗がん剤の説明を受ける。難しい名前の抗がん剤を三種類、そのうち二種類を合わせて投与し、様子を見るという。当初は、週1回の投与を6週間、その後、三種類を1日置きで2週間、2週間休んで…という流れを2クール行う。理解できなかったが、とにかく時間を長く要することだけは分かった。


抗がん剤を投薬すると熱発があったり、免疫が低下するために風邪などでも命取りになる。その為、投与する予定日に状態が芳しくないと、投薬ができないことがあり、計画通りにいかない。日数を追うだけなら時間が解決してくれるが、肝心の腫瘍の状態がどうなるのか?考えれば考えるほど、良からぬ考えが頭をよぎる。その都度、目頭が熱くなり、私の母が重なった。  


母は、 私が小3の時に乳がんで亡くなった。36歳だった。私が小1のころから入院し、闘病生活が3年ほど続いた。当時は、入院の意味がわからなかった。週末は、病室に布団を持って父親と妹と私で寝ていた。それが楽しかったのだろうか?よく覚えている。写真を通して…幼い頃に感じた、優しく微笑んでいる母が頭に残っており、今でも母の変わらない印象がある。 私が小3、妹は小1だったので、妹は、あまり母を覚えていないという。

 

小3の春、新学期が始まろうとしていた朝、学校に行こうか?とテレビを見ていると電話が鳴った。私が受話器を取ると、祖母からだった。「お母さんは星にならはったよ…」と、何の事か分からなかった。父に受話器を渡すと顔が曇り、みるみる目に涙が溢れていた。状況がよく掴めなかった。外を見ると友達が、登校班で学校に向かっていた。私と妹は、学校に行かず、病院へ向かった。


亡くなる直前に母は祖母に、「娘の花嫁姿がみたかった。子供たちの成長を見届けたかった」とつぶやいていたそうだ。娘、かりんの闘病時、私は36歳で、母の亡くなった年齢だった。子を持つ親として、母の気持ちを察するとさぞ辛かったろうと思う。 母、娘ともに悪性腫瘍(がん)に侵されている。憎いとともに、命の尊さを誰よりも強く感じている。だからこそ明るく、今を大切にすることを心に決めている。 


家族が離ればなれの生活になり一カ月を経た。毎日、かりんのお見舞に同行した咲太郎だが、感染回避のために、病棟には入れなかった。私がかりんと面会し、妻は咲太郎と病棟の外にある待合室ですごした。会話したり、ゲームをしたり、甘えたり…お母さんを独り占めできる唯一の時間だ。30分を目処としていたが、咲太郎に妻と一緒に居たい願いをきくと、ときおり時間を伸ばした。病院から自宅に帰るときはいつも辛かった。エレベーターに乗り、ボタンを押すとドアが閉まるまで咲太郎はいつも変な顔をする。不安な顔をした私たち夫婦をほぐしてくれるためだ。3人が笑顔をでいられるわずかな時間だった。

 

ドアが閉まると咲の笑顔は次第に消え、やがて悲しそうな顔になる。時折、妻と「離れたくない」と涙を流す。 病院から車で帰り、家に着く。「お母さん…」と実は離れるのが寂しいと駐車場で泣いて、そのまま家に入る日が続いた。11月下旬は咲太郎と妻の誕生日だ。しかし、家族はバラバラ。誕生日ケーキを買うが、家族で祝福ができない。電話、メール越しにおめでとうを交わした。 咲太郎は、心の清い強い子だと、いま改めて思える。私は、彼を少しでも勇気付けられるようにと思い、好きな仮面ライダーから五歳の誕生日にカードを貰えるよう手配した。喜んではいたが、満面の笑みではなかった。子供ながらに懸命に振る舞う咲を見ると胸が締めつけられた。 


 

かりんは三度成長する

小児がんを宣告された娘。父である私と家族の闘病の日記です。

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