4 希望の光
かりんは、一歳を迎えていたが、まだ母乳だった。私が休みの前日は、妻と交代して咲太郎と妻とで過ごして欲しかったが、私には母乳が出ないし、ミルクも飲まなかった。それでも、少しずつミルクに慣れさせて、看病を替われる様になった。私が休みの前夜に交代し、妻は、家に帰り咲と生活する。妻は、今までの関わり方とは違い、思いっきり甘えさせたので、交代の日は余計に辛さが残る。
抗がん剤治療を始めてから二ヶ月が過ぎ、薬が顕著に効いてきた。排泄は徐々に自分でできる様になり、両足は太もも、ふくらはぎ、足首、指が少しずつ動いてきた。先生の説明では、薬が効いて腫瘍が少し小さくなり圧迫していた神経が通ってきているのだろうとのこと。光が見えてきたことが確信できた。涙を流しながら喜んだ。最初の先生からは、腫瘍が大きくなりこのまま神経を圧迫されたままなら、全くの不随となるか、背骨を割る手術をして腫瘍を取り除き神経が通る様にするしかないという見解だった。ただ、背骨を割る手術をすると側湾(背骨が前後左右に曲がり、それに応じて身体が曲がること)が顕著にでてしまう。「側弯なら八椎に跨っているので、前後左右に通るとんでもない形になるかも知れない」との事だった。後者には絶対なりたくないので何とか治って欲しいと一心に願った。そのため、良くなって来ている兆しが、なおさら嬉しかった。
ベッドで座ることもできる様になった。足をベッド柵から出し、ばたつかせている。その光景が可愛くて、嬉しくて仕方がなかった。しかし、抗がん剤治療をすると髪の毛が抜けると説明にあった通りに、一気に毛が抜け落ちた。枕には、細い髪の毛の束が広がるようすは想像以上だった。粘着のローラークリーナーで一度転がすとローラーは髪の毛まみれで白い粘着部が隠れてしまう。「髪の毛は、こんなにもあるのか」と思いながら二週間ほど、朝を迎える度にこの作業を行った。ミルミルうちに、かりん頭皮が見え、ショックを大きく受けた。それでも病気が良くなってきている、足が動いている、排泄ができる…と方の気持ちが勝っていた。 兆しとして足の運びが良くなったいた。椅子やベッド柵に掴まり立ちができるようになり、ベッドの中が賑やかになってきた。 病院内にあるプレイルームでは、点滴をつけながらハイハイし、掴まり立ちをしている。動きが盛んになり、看護師さんや顔馴染みの病室の親御さんから、「凄いね、かりんちゃん」と声をかけてもらい、本人もニンマリしていた。 12月下旬の頃であった。
年末年始は、私の仕事が休みであり咲太郎に、「お父さんと、お母さん、どちらと過ごしたい?」と尋ねみた。即答で「お母さん」。私はかりんと病院で年末年始を過ごす。年末は、家族で『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで 年末スペシャル』を見て笑いながら、年を迎えるのが常であった。病室は、相部屋(四人部屋)であり、テレビを見るときは、イヤホンをつける。大笑いをしたいが、周りに気を使い控えるが、みな同じ番組を見ているのだろう、オチの場面では部屋に笑い声が広がった。かりんは、テレビに夢中な私に嫉妬したのか?一人遊びしながら20時過ぎに眠りについていた。 申し訳なく思ったが、自分の心の栄養と捉えて、納得しておいた。
入院中の日課は、オムツ交換、食事介助、プレイルームへ移動と何かとバタバタしていた。かりんの寝ている幼児用のベッドで一緒に寝ているが、ベッドが小さいので、寝位置を探しながらだ。どこでも寝られる性分の私は、なんとか寝られたが、妻の寝むりは日々浅かったようだ。夜勤の看護師さんが、かりんの状態やオムツチェックで巡回する。時折、熱発があり、抗生剤を点滴から投与するために取り替えたりしてくれた。ときには点滴の不具合で、けたたましいアラームに飛び起き、看護師さんを呼んだ。疲れている時は、看護師さんが巡回していることを気づかずに疲れて寝落ちしていた。安心して寝られるありがたみを仕事とはいえ、感謝した。かりんの病状の改善に気持ちは和らいでおり、希望に満ち溢れていた。
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